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 マニラから東へ車で1時間の街、アンティポロに行ってきました。ここはカトリック信者には聖地であるアンティポロ大聖堂で有名なのだが、私が行きたかったのは洞窟Mystical Cave。神秘的と名乗るからには何かがあるに違いない。標識もなく、くねくね曲がる山道をGoogle maps頼りに登っていく。途中セメント会社セメックスの工場を横に見る。

 セメックスはメキシコ大手セメント会社。ドゥテルテ政権の大規模インフラ計画 ”Build Build Build” でセメント需要が高まっているため、今年の1月工場拡張を決定した。車内にいるにも関わらず、空気が埃っぽいのを感じる。休日でこれなら平日はさぞ大変なのではと近隣住民を案じてみたり。

 日本もセメントで有名な山口県には、秋芳洞という素晴らしい鍾乳洞があったっけ。幼い頃パパ(恥ずかしながら拙宅は、お父さんではなくパパと呼びなさいと教育されておりました)に連れられて、色々な鍾乳洞を探険したなあと亡きパパに想いを馳せたりする。セメントがある→いい石灰岩がある→いい洞窟がある。そんなことを教わったのもいい思い出。

 おっと。湿った話になりそうだがそうはならないのでご安心を。Mystical Caveと道からかろうじて見える手書きの看板を見つけて、石段を200段ほど上がる。

Mystical 看板

入場料+ガイド料50ペソを払って入って中へ入ってみる。
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        1970年代に洞窟を発見したネリー・デレス女史の名前が

普通洞窟は冷んやり湿っているものだが、全くそんな気配なし。外よりちょっとぬるい程度。ここがフィリピン。高さも2−3m、そんなに大規模でもない。

柱
         見事な鍾乳石の柱

 途中、壁や地形を見ながらキリストが寝そべっている図、キリストたちが着替えに使った部屋、浴槽、マリア様が懐妊した場所(ここか、ここなのか!)など説明を受けるが、あまりピンとこない。
衣装室
         キリストたちが衣装替えをした部屋(らしい)

 一つだけ!と来たのは、通称キリストの笑顔。
キリスト笑顔
うーん、どこかで見たことある。脳内ストックフォトをサーチして出てきたのは、これ。あー、左右反転しているけどアレだ。いばらの冠をかぶったキリスト。
イバラのキリスト修復画

2012年、修復でキリストが猿になってしまったと世界中にため息と笑いをもたらしたアレです。もっと適切なキリスト壁画があるのかもしれないけれど、もう私の中ではアレ。いやあ、面白かった。途中、マレーシアの仏像というのも見せられたが、
マレーシア仏像

なぜムスリムの多い、マレーシアからの、仏像?ツッコミどころ満載でした。
 
 行かれる方は、雨季は外すべし。8、9月に友人を連れてきたいと言うとガイドさん曰くその頃は内部が水でひたひたで入れない可能性があるとのこと。

 おまけ。Mystical Cave からさらに険しいけものみちを上がるとWhite Cross という十字架を見ることができます。

十字架へ
うがあ

十字架見える
              ああ神様、仏様、あと少し私のお尻を押して

たんと汗をかいた後にみる十字架は有難みがある。翌日ふくらはぎに筋肉痛がくることも保証します。
山頂十字架と

     この日2回子供と一緒に写真を撮ってとせがまれる。たぶん理由はTシャツのせい。

 バタド(Batad) を歩いた後にエゼキエルは スネークリバー(Snake River) は見る価値があるとビューポイントに連れて行ってくれた。
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 おお、蛇がいる。川がくねくね田んぼの間を流れている。何かを建設することはできず陸の連結が悪いので、若い人がどんどん出て行ってしまうという。俯瞰して見るぶんには美しい。でも実際その高さで生きていくには、見えない苦労と常に向き合わねばならない。 

 
エゼキエルの案内コースはほぼ終わりつつある。どこか行きたいところはあるかと聞かれたので、どの観光サイトでも最初に出てくるバナウエビューポイント(Banaue View Point) をリクエスト。実は前の日にエドウインが連れて行ってくれたのだが、時は午後6時。すでに暗く何も見えなかったのだ。警官エドウインの目にはクリアに映っていたのだろうが。

 「ビューポイントは幾つかある。でも自分の実家があるビューポイントエリアに行くよ」と
エゼキエルはトライシクルを走らせる。
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途中道端で刈りたての稲を販売。箒かと思った。50ペソ。売り子はエゼキエルの叔父さん。
   
くねくねした道を今までの倍速でヒュンヒュンと曲がって行く。高度はどんどん高くなるが自分が毎日”通勤”している道だから、彼は目をつぶっていても走れるのだろう。ああ、息苦しい。空気が薄くなるのを感じる。

 降りた場所から見た光景は、鋭角なすり鉢だった。写真で見るぶんにはわからないが、現地だと息を呑むだろう。ドローンを操縦できるようになっておくべきだった。
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観光客は私たち以外いない。イフガオ族と写真を撮るといいと勧めされる。頭に羽の飾りをつけ民族衣装を着ておばあちゃんが道にちんまりと座っていたが、即座によってきた。

 エゼキエルが私のiPhone を構えたところで、あと二人のおばあちゃんがどこからともなく登場。普通に撮ってもらおうとしたら、ピースサインをしろとおばあちゃんに強要される。まるで喜劇じゃないの。彼女たちはとっても小さい。身長は私の半分だろうか。
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3人には撮影料として20ペソづつ支払った。土産物はいらないかと
エゼキエルが言う。このあたりの店も家族か親戚の経営だろう。彼へのガイド代は前払いしてあるので、チップがわりに土産物を数点購入した。木を彫った豚の大皿はパーティー用にいいね。
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フィリピンは豚を丸焼きにするレチョンがご馳走。豚はキャラクターとしても人気がある。
 
 ビューポイントからホテルに戻る途中で、エゼキエルがトライシクルを停める。20ペソ紙幣に印刷された場所らしい。さぞ誇らしいと思いきや複雑な表情をする。「昔は一番高額の1000ペソ紙幣の裏にあったんだ。今は20ペソになっちゃった」たとえば一万円札にある福沢諭吉が、新札から1000円札の顔になってしまった感じ?日本じゃまずないない。

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 棚田マニアではないが、バリ島や岡山県の棚田よりはるかに大きいバナウエ。大汗をかきかき歩く価値はある。インターネットが繋がらない地域がほとんどなので、フィジカルにもデジタルにもデトックスできること、請け合いです。未踏のエリアが2つほどあるのでまた行こうかな、バナウエ。ここには懐かしいアジアが残っている。
 


  


 2日目に訪ねたのは、Batad(バタド) Rice Terraces 。バナウエ中心部から1時間ほどトライシクルで山を登っていく。数日前にここを襲った台風の爪痕がなまなましい。
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倒木や岩で道が半分の広さになっているため車はもちろんジープニーも無理。トライシクルをチャーターして行くしかないのだ。
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見切れているが、ここは標高1300m

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 「天国への階段」という別名がよく似合う。幅の異なるアートのような棚田が空に向かっている。全ての棚田を平らに伸ばすと地球半周分の2万kmにおよぶという。イフガオ族は何を思って、これを丹念に作ったのだろう。しかもバタドではWall stone という石を積み上げてから泥をかぶせて田を作るスタイル。泥だけで段々を作るよりはるかに手間がかかる手法だ。
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石が積み上げられているのがわかるだろうか。

精巧さでは及ばないにしてもスケールからするとピラミッド、万里の長城にも劣るまい。そんな一面がフィリピン人にあるとは意外であった。

 到着地からずんずん山道を下る。幅が狭いうえに急。膝の悪い人にはキツいかもしれない。ある程度降り切ったところに受付があって、環境費50ペソを払う。係の女性に「よくやった」と言われたので、なんでだ?と聞いたところ、30分ほどかけて下る途中、つらくなって戻る人も多いんだそう。確かにラクではない。周りを見るとここはすり鉢状の棚田の半ば。

 そこからさらに下り、ある踊り場まできたら今度はすり鉢を登って行く。すり鉢をV字に移動する感じ。45度近い勾配に幅20cmほどの岩がかろうじて足場として差し込んであるだけなので、自分が高所恐怖症でなくて良かったと思いつつ、慎重に一歩一歩踏みしめる。途中で現地のイフガオ族とすれ違うときは、どちらかが棚田の広い場所に戻らないといけない。こちらは杖をつきつつ登って行くが、彼らはビーサンで軽々と飛ぶように下りて、登ったりする。
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農家の人に見える私。手の先に見える緑屋根の集落には80人ほど住んでいる
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ほぼ収穫後なのに、かすかに残っていた稲穂
太陽がスポットライトに感じられるほど、キーンと容赦なく照りつける。1500mくらいのところで私は止まることにした。あと300mくらい上に行けるのだろうが、再び下って登るだけの体力を温存しないといけない。今日のガイドのエゼキエルも、無理はするなと笑顔で言う。過去、客を担いで帰ることもあったそうだ。

 エゼキエルはとても優秀なガイドで英語もうまい。田んぼが石の壁でユニークなこと、世界遺産の指定を受けた理由の一つにマシンでなく手で苗を植えていること、農薬は一切使わずひまわりの花を腐らせて肥料にして育てるオーガニックな米であること、二毛作ができないので生産した米は他の土地には回らず純粋の地産地消であることなど、よどむことなく喋ってくれる。途中聞きなれない単語があったのでスペルを聞いたら、スペリングという概念自体がわからない様子。話題を変えて、英語うまいね、どうやって習ったのと聞いたら、観光客と会話していて覚えた、と。典型的な”耳から英語”の人だ。一旦スペルを見ないと定着できない私からすると、うらやましい気もする。
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        エゼキエルくんはトライシクルの屋根から写真を撮ってくれた

「自分は2年で学校に行くのを辞めてしまった」
学校というのは小学校のこと。いまはそれを後悔している。だからお客さんとしゃべることで、勉強しているんだ、ガイドしながら言葉を学ぶには体力をつけないといけない、だから太らないようにしている。どうやら私は彼の心の引き金を引いてしまったようだ。

 Ba
naue には小学校しかない。中学校からは山を降りた街に出て寄宿せねばいけない。お金もかかるから、小学校しか出てない人も多いんだ。

   前をずんずん歩くエゼキエルの生い立ちをふんふんと聞きながら、杖をついて山道を登る。私の後ろに、いつの間にか頭に袋を担いだ小さな男の子がついて来ていた。先に行っていいよとジェスチャーで示すが、首を横にふって後ろからついてくる。エゼキエルが言うには、このお姉さんが落ちないようにボクが後ろから見張るとのこと。じゃあ、お言葉に甘えて君に守ってもらうことにするよ。

 2時間以上かけて、ようやくトライシクルの駐車場に戻って来た。よく歩いたぞ、自分。
後ろから見守ってくれたボクが頭に担いでいたズタ袋を道にぶちまける。中身は棚田を作る石だった。さぞ重かったろう。年を聞いたら7歳という。身長からてっきり4歳くらいかと思っていた。なるほど高所に暮らすのに、背が低いのは理にかなっているのかもしれない。お礼として抹茶アメを一つあげた。口に入れた途端、ボクの顔がほころぶ。嬉しいなあ。世界遺産と暮らすということは誇らしいが、なかなかしんどいかもしれない。私たちは、500mlの水を2本ぐびぐび飲み干した。それでもカラダの細胞は満足しないようで、ビールが欲しかった。
                    (この項、あと少し続く)

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        Yes, I surivive Batad (バタドで生還した)                     



 フィリピンはカレンダーにない休日がたくさんある。いや、政府のお達しで突然降ってくるというのが正しい。日本ならカレンダー業者から苦情がくるレベルだが、この国では全く問題にならない。で、降って湧いた11/1からの4連休。マニラから北へ車で8時間かけて行ってきました。バナウエ (Banaue) という世界遺産へ。
WelcomeBanaue

山の上である。ようこそバナウエへ。素朴である。

「あー、これTBSの『世界遺産』で見たことある景色!」 

Hapao


放映された2000年、当時私は仕事が異常に忙しく、毎週日曜23:30からハンカチとシャツにアイロンをかけながらこの番組を見ては、心を整える(長谷部か!)ことを儀式にしていたのでした。歴史と自然の偉業を週一回深夜に拝んでは、自分の悩みや仕事のいろいろなんてちっちゃいちっちゃい、と妙な安らぎを覚えていたあの頃。ふー

 トライシクルのドライバー兼ガイドのエドウインは、ビューポイントにつくと、Photo, Photoと知らせてくれる。彼はこのバナウエ町 の警官である。つまりバイト?まあこの国は副業OK ともいうし、むしろ安全だからいいとするか。
Me in Hapao
        
感動で密かに高揚している私

UNESCO看板
UNESCO による表示。Hapaoのある区は5つのエリアからなる世界遺産の一つ。

 急な斜面を滑るように100mほどくだり、エドウインは田んぼのあぜ道をずんずん歩いて行く。バナウエは山岳地帯に住むイフガオ族が2000年ほど前、急傾斜を開墾して作り上げた棚田だが、ここハパオは比較的緩やか。田んぼが引き出しのように広がる。9月に収穫は終わっているので、色は茶けているものの十分に趣がある。

Hapao 2
        台風一過で天気が良かった。
 エドウイン、幅30cmほどのあぜ道を無言でずんずん歩く。険しい段差もひらりと駆け上がるのは、警官の体力がゆえか。時々足がすくむ私に手を差し伸べて助けてくれるのはいいが、全く観光に関する説明がない。

「あの人たちはここで暮らしているの?」
「年に何回収穫するの?」
「コメ以外は作らないの?」
 質問してもニコニコするだけ。どうやら英語がしゃべれない様子。それでガイドを引き受けちゃうのがこの国なんだな。
エドウイン
        ずんずんエドウイン。私たちは90分あぜ道を歩き続けた。ほぼほぼ修行
         
 田んぼの中に教会が溶け込んでいる。他の街の教会に見受けられるスペインぽい香りがない。フィリピンは300年強スペインの支配下にあったが、ここハパオ、いやバナウエにはその気配は全くない。2000年の歴史の強さだろうか。昨年フィリピンにきて、初めてアジアを感じた場所かもしれない。世界遺産と暮らしていくというのは、どういう気分なんだろう。
                                 (この項、続く)
教会Hapao


 余談ですが、『世界遺産』は現在もTBSでオンエアされている。昔はソニーの提供だったが、今はキヤノンの提供で18:00から。今、もし若い私が東京で見ているなら、『ちびまる子ちゃん』を観るような気分でしみじみしているのかもしれない。ただ、素晴らしい番組であるのは変わりがないだろう。

 

 

 
 

  

 急に三連休になったので、Manilaから車で1時間Marikina という靴の街に行ってきました。正確にいうと、あのイメルダ夫人の靴コレクションがあるミュージアムがあると聞いて出かけたら街中で靴作りをしているMarikina にたどり着いた、が正しい。行くまでは街の名前すら知らなかったから。

 ご存知のように、イメルダ夫人は昔フィリピンで20年もの間大統領だったフェルディナンド・マルコスの奥さん。ま、ファーストレディです。 革命でマラカニアン宮殿を追放された後、彼女の3000足の靴と6000着のドレスは国家財産の私物化を象徴する光景として全世界で大々的に報道された。まだインターネットもない時代だったのに、鮮明に覚えているのは私だけではないのでは。

 実は私、イメルダ夫人には親近感を持っておりまして。その昔バブルという時代があった頃、お恥ずかしいことに私は靴マニアであった。ハイヒール、ブーツを中心に200足は持っていたと思う。今は旅芸人の身分なのでそういうわけにもいかないが。はて。そんな馬鹿娘に対して母が「あなた、ムカデやイメルダじゃないんだから、いい加減に靴、整理しなさい」と言い放ったこともあり、イメルダ女史には近しいものを感じるのでありました。

 街の中核に鎮座するミュージアムMarikina Footwear Museum (市のリンクにはShoe Museumと表記してあるが、入り口にはFootwear と書いてあった)、個人宅のように見えますが、スペイン占領下時代の元兵器庫。銃を保存していた場所でした。入場料50ペソを払って踏み入れると、ちんまりとした空間に靴を作る工具、不思議な足型ツリー、不気味な人形、そして待望のイメルダコレクションが。
足型
レプリカ
          (何か持たせてほしい。怖い)

 2階を占領するコレクションには、緑、パーティー用の金銀、ベージュ系、そしてコレクションの役半分を占める黒いハイヒールが見事に飾られてあった。600から700足保存しているイメルダ夫人の靴を年に数回展示替えしているらしい。
ImeldaCollection

 手入れの行き届いた靴を覗き込むとシャルルジョルダン、ブルーノマリ、バリー、ディオール、シャネルなどのブランドが目につく。確かにこのあたり、1980年代に流行りました。50%が有名ブランド靴で、50%がMから始まる2−3の知らないブランド。「これ、どこの靴ですか?」と尋ねると待ってましたとばかりにミュージアムの係員が答えてくれました「これがMarikina のブランド。イメルダ夫人は、Marikinaの偉大なアンバザダーでいてくれたのです」。実際、海外行脚や国際行事にはいつも彼女はMarikina 産のハイヒールを履いていたという。そういえば日本の某防衛大臣もいつも出身地(福井県)特産のメガネかけてましたっけ。政治家は大変だ。
Imelda足型
      (ミュージアムの外にあったイメルダの靴の型。ハリウッドの手形を意識?)

 Marikinaの靴の街としての最盛期は1980年代だったらしいが、今も作り続けていて、靴の街という称号は今も変わらない。柔らかいゴム製のフラット靴や男性用の作業靴は廉価で需要があり、ブラジルのハワイアナスによく似たMarikina産ビーサンは安価で履きやすい。

 マニラから運転してくれているドライバーが「Maam(フィリピンでは、女性への敬称としてマームを使う)、世界一大きい靴を見たいですか?」と聞く。Yesと答えたら、街の外れにある靴売り場が大半を占めるショッピングモールに連れてってくれた。モールの片隅に、巨大な紳士用のウイングティップが飾られていた、いや放置されていたというのが正しい。誰も気がつかないであろう世界最大の革靴。
世界一の靴
       (横の売り場から女性の靴を拝借。どれだけ大きいのか!)

 「なぜ、あなたはこういう情報を知っているんだ?」とドライバーに尋ねたら「このモールは元靴工場で、自分の父親がここで靴を作っていたんです。だからわざわざ来てくださる人には教えたくて」照れながら、つぶやく。そういえば彼が紹介してくれたレストランは、フィリピンにしては珍しく、マッシュルームのスープやポークチョップという名のカツレツといったきちんとした洋食(!)を食べさせてくれる老舗であった。
 
 なんか知られていないことだらけで、もったいない。靴の女王イメルダにも、理由があった。Marikinaは考えさせる街でありました。

 

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