カンボジアのプノンペンを訪れた。ポルポト時代のキリングフィールド Killing Fieldについて知りたかったから。むかしアンコールワットを観光した際に4日間ドライバーをしてくれたハイという青年が、クメールルージュがいかに残虐だったか、でもクメールルージュのNO2が道路を舗装してくれたなどと合間あいまに話してくれたことが、能天気娘のどこかアタマの片隅に残っていたせいか。なにせホーチミンからプノンペンはカタール航空で40 分。近い近い。
 
 クメールルージュという名前だけ聞くと、CHANELから出る口紅の新色みたいで優しい印象を受けるがとんでもない。ちょっとだけおさらいすると、クメールルージュはカンボジア共産党の別名で、1975−79年の4年間に”完全な共産主義国”を建設するために猛威をふるい、大量の知識人ひいては国民の4分の1にあたる200万人を虐殺したグループのことだ。

 で、Killing Fieldに行ってみた。正式名チュンエク大量虐殺センター。一見のどかな野原をヘッドフォンをつけた外国人たちがのんびり歩いている。(ニワトリものんびり)
Killing Field
しかしヘッドフォンから聞こえるのは、淡々と語られる虐殺のプロセス。ポイントポイントで適切な解説が流れてくる。高度なドキュメンタリー。30代の初めにワシントンのホロコースト記念博物館に行ったとき、豊かな映像素材と写真がおりなす演出に圧倒された。たぶんそれと真逆の、引き算展示がKilling Field。むしろこちらの方が聞き手の想像力を刺激するのかもしれない。映画「Killing Field」を観たときと、全く違う印象。興味のある方はプノンペンを訪問することをおすすめする。

 クメールルージュ党首ポルポトが出した指令の中で一番印象に残ったのは、手のやわらかい人と眼鏡の人を殺せということ。手がやわらかい=労働者でない。眼鏡をかけている=勉強した知識階級である。知識階級は”古い人”であり、彼のめざす農業主体の共産主義国、自分に逆らわない新しい人でつくる国には邪魔だったということだ。学校、病院、工場を閉鎖。銀行業務どころか貨幣まで禁止してしまい、子どもたちに医者をさせたり農業をさせたりしたが、どっこいこれが機能するはずもなく、国自体が飢饉となり破綻の道をたどった。

 このポルポト、カンボジアの裕福な農家で9人兄弟の8番目として生まれた。20歳のときにフランス政府から奨学金をもらってパリに留学。電子工学を学んだものの、途中フランス共産党の集まりに顔を出すようになり共産主義思想に洗脳されていく。成績がいまひとつで3年で放校された。最終的には毛沢東を崇拝していたという。
 
 元インテリがどういう経緯で、失敗への道を邁進したのだろう。共産主義への批評はさておいて、ポルポトが尊敬する毛沢東はやはり偉業の人だと思うのだ。ポルポトの生き様をイマ風にたとえると、優秀な人を使うことのできないダメなリーダーの典型だったのかなあなどと思いを巡らせたりする。

 ちなみにポルポトの写真は以外と少ない。彼の下にいた虐殺センターの責任者カン・ケイウは意外とイケメンで写真をプノンペンのあちこちでみたのだけれど(まだ存命。35年の禁固刑を宣告されている)、potなぜかポルポトのは一つしかなかった。もしかしてポルポトは自分の外見にコンプレックスでも持っていたのだろうか。推測でしかないけど。Killing Fieldとペアで見るべきもう一つの施設トウールスレン虐殺博物館(通称S21)でポルポトを発見したが、銅像の頭部でしかも床に放置されていた



 
 


(カン・ケイウ)

    ポルポト
                      (放置されたポルポト)

 ホーチミンで通うジムに、ひとなつっこく話しかけてくる従業員がいる。私が機械をガチャンガチャンやっていると、側にやってきてソニーとサムソンのスマホはどちらがいいかとか、いかにホーチミンでプロテインが入手しにくいかなど東京の人のような話をするので、そういうクラスの人だと思っていた。先日「マダム、いつも運動しっぱなしでしょ。ストレッチをしないとダメですよ。僕がやってあげます」とマットを床にしいてストレッチしてくれた。それ自体はありがたかったのだが、彼の手、つまり手のひらまでもがガサガサだった。そういう手に触られたのは生まれて初めてだったので、正直驚いた。ごめん。ベトナムも奥が深い。